「命に別状はなかった」という報道を読んで、軽症だと思って対応すると患者の8割に身体的後遺症が残ります。
『クマ外傷 クマージェンシー・メディシン』(新興医学出版社、税込3,960円)は、2025年5月に発売された日本初のクマ外傷専門医学書です。そのわずか10か月後の2026年3月には「M3医学書大賞2026」の大賞を受賞しており、医療者の間でいかに注目されているかがわかります。
本書を編著した秋田大学大学院救急・集中治療医学講座の中永士師明教授は、30年以上にわたって100件超のクマ外傷を治療してきた第一人者です。以前に救急関連書籍へのコラム執筆がきっかけとなり、「クマ外傷専門の一冊をまとめよう」という流れが生まれました。それが結実した本書は、まさに現場の経験を凝縮した実践書といえます。
著者陣は「オール秋田」の専門家で構成されており、皮膚科形成外科の手塚崇文先生、整形外科の白幡毅士先生、精神科の入中啓輔先生・竹島正浩先生、救急科の土田英臣先生、そして秋田県立大学の星崎和彦教授が執筆に携わっています。全88ページというコンパクトさながら、救急科単独では対処しきれないクマ外傷の多科的な側面を丁寧にカバーしています。
本書が生まれた直接的な背景には、近年急増するクマの人身被害があります。2023年には秋田県だけで70件の人身被害が発生し、全国最多を記録しました。全国でも被害が急増し、マスコミ報道が「命に別状はなかった」と繰り返す一方、実際の臨床現場では重篤な後遺症が残るケースが後を絶ちません。つまり、クマ外傷は基本です。
秋田大学公式:M3医学書大賞2026選出のお知らせ(中永教授編著書)
本書は第1章から第6章+充実のコラムで構成されており、全体として「なぜクマ外傷が増えているのか」から「治療後の精神的ケア」まで、一貫した流れで学べる構成です。
第1章「なぜ今、クマなのか」では、クマと現代社会の関係を解説します。生息数の増加、人里への出没が増えた理由、統計的な被害の推移などが詳説されており、なぜ今この専門書が必要なのかを理解するための土台となっています。クマの生態(食性・行動様式)に関するコラムも収載されており、医療者が現場でクマの行動特性を理解する手助けになります。
第2章「クマ外傷の特徴」は、本書の中心的な章のひとつです。秋田大学高度救命救急センターで治療した20例を分析した国際学術誌掲載論文(Acute Medicine & Surgery 2024)の知見をもとに、クマ外傷の統計的特徴が明らかにされています。
💡 主なデータ:
被害者の75%が人里での受傷という点は特に重要です。これは「登山や山仕事をしない自分には無関係」という認識が、医療者・患者ともに危険な誤解であることを示しています。意外ですね。
第3章「顔面外傷の実際」では、形成外科専門医が顔面外傷の処置を詳説します。顔面骨骨折、眼球破裂、頭蓋骨骨折を含む複合外傷への対応が写真つきで解説されており、救急科医だけでなく形成外科・耳鼻咽喉科・眼科の医師にも有益な内容です。鼻が欠損した状態で搬送されるケースもあり、搬送前に「遺失部位を保存して持参する」という実践的対応のコラムも収載されています。
第4章「四肢外傷の実際」では、整形外科専門医の視点から上下肢の創傷処置が解説されます。クマ外傷では防御時に上肢が受傷するケースが70%に及ぶため、骨折・腱損傷・神経損傷への対応が現実的なテーマです。また、犬・猫の咬傷とは細菌叢が異なるため、使用する抗菌薬は広域スペクトルのものを選択する必要があることも示されています。これが原則です。
第5章「精神的問題」と第6章「予防対策」については次のH3セクションで詳しく解説します。
秋田大学救急講座公式note:クマ外傷の疫学研究解説(Acute Medicine & Surgery 2024掲載論文)
クマ外傷で最も高頻度に見られる損傷は顔面外傷で、秋田大学のデータでは実に90%の患者に顔面損傷が確認されています。顔面が圧倒的に多い理由は、クマの攻撃パターンにあります。クマは立ち上がって前脚を水平方向に振り払うように攻撃します。人間の顔の高さに攻撃が集中するのはこのためで、「アッパーカットはない」というコラムの表現が端的に示すように、下から上へ顔面を打ち上げる攻撃ではなく、水平パンチによる損傷です。
顔面骨骨折(9例)、眼球破裂(3例)、頭蓋骨骨折・頭蓋内出血(1例)という秋田大学のデータからは、クマ外傷が「ただの裂傷」ではなく、気道確保・止血・眼科的緊急処置を同時に要する複合外傷であることが読み取れます。搬送先は高度救急であることが条件です。
感染対策については、本書が特に強調するポイントのひとつです。クマの口腔内・爪には多種多様な細菌が存在し、イヌやネコの咬傷よりも広域の抗菌薬選択が必要とされています。J-Stageに収載されている国内論文(当院におけるクマ外傷9例の検討)でも、好気性菌だけでなく嫌気性菌への考慮が必要であると報告されています。
創部感染を予防するための基本的な処置フローは以下のとおりです。
| 処置内容 | ポイント |
|---|---|
| ⑴ 大量洗浄 | 全身麻酔下で生理食塩水による徹底的な洗浄が推奨される |
| ⑵ 抗菌薬投与 | 犬猫咬傷よりも広域スペクトルの抗菌薬を選択 |
| ⑶ 破傷風予防 | 破傷風トキソイド+抗破傷風ヒト免疫グロブリンの投与 |
| ⑷ 創部の観察 | 嫌気性菌を含む感染の可能性を継続的にモニタリング |
また、本書に収載されているコラム「クマ外傷者の受け入れが決まった時に行うべき準備」は、搬送連絡を受けた時点から院内でどのような準備を進めるべきかを実践的に示しており、地方の救急医療現場では特に役立つ内容です。これは使えそうです。
気道管理の観点でも注意が必要で、顔面・頸部の出血や腫脹による気道閉塞リスクがあるため、搬送時から気道評価を怠らないことが求められます。
クマ外傷の診療では急性期の身体的処置に注目が集まりがちですが、退院後の精神的フォローアップも重要です。本書第5章は日本では初めて系統的に論じられたクマ外傷後の精神的問題についての解説章で、精神科専門医が担当しています。
秋田大学の土田英臣先生らが行った追跡研究(Acute Medicine & Surgery 2025掲載)では、受傷から中央値343日後にアンケートを実施した結果が報告されています。
🔍 主な研究結果(11例):
この研究で注目すべきは、「身体的な重症度が高くなくても、PTSDリスクが高い患者が存在する」という点です。救急医や外傷外科医が「身体の治療が終わった=診療終了」と判断しがちな状況に対して、重要な警鐘を鳴らしています。つまり、退院時に精神科への橋渡しが必要です。
本書では、クマ外傷後に生じうる精神症状として次のようなものが解説されています。
農作業や散歩といった日常生活の中で被害に遭った場合、「同じ場所に戻れない」「畑仕事ができない」という形で生活の質が著しく低下するケースが少なくありません。とりわけ平均74.5歳という高齢者層では、精神的ダメージが身体機能の低下と連動するリスクがあります。厳しいところですね。
本書では精神科的介入のタイミングや支援の在り方についても解説されており、退院前から精神科チームと連携する体制の重要性が示されています。多科連携が条件です。
秋田大学救急講座公式note:クマ外傷後の心理的後遺症追跡研究(Acute Medicine & Surgery 2025掲載論文)
本書第6章「クマ外傷の予防対策」は、医療従事者と自治体関係者の双方に向けた実践的な内容を収録しています。医療の現場からクマ被害の予防に貢献するというユニークな視点を持つ本章は、他の医学書ではほぼ見られない内容です。独自の視点ですね。
本書で紹介されているクマの生態上の特徴として押さえておきたいのが、「冬眠穴(ふゆみんあな)」の問題です。雪が残る季節でも、目覚めたクマが活動を始めることがあり、山岳地帯に近い医療機関では春先から被害が増加する可能性があります。また、クマは10月が最も活動的になる時期であり、冬眠前のエネルギー蓄積のために人里に降りてきやすい状況が生まれます。
予防対策として本書が提示する具体的な知識は次のとおりです。
医療機関・救急隊員向けのコラム「クマ外傷者の受け入れが決まった時に行うべき準備」「救急隊員がその場でできる対応」「高度救急ではない医療現場に搬送された場合の対応」は、特に地方の第一線の救急医・看護師・救急救命士にとって参照価値の高い実践ガイドになっています。
ここで重要になるのが、高度救急でない施設への搬送された場合の対応です。本書は高度救命センターへの転送判断の基準についても触れており、「迅速に根本治療を行える施設への搬送」こそが救命の鍵であると中永教授は述べています。自院でできる応急処置の範囲と、転送の判断基準を平時から整理しておくことが不可欠です。
また、「子グマなら勝てるか?」「クマのパンチにアッパーカットはない」といったコラムは、読み物として楽しみながらクマの行動様式について正しい知識を得られる工夫がなされています。クマ外傷専門書という硬派な内容でありながら、読み続けやすい構成になっている点が本書の特長でもあります。
本書は医学専門書としての完成度だけでなく、「地方医療からの情報発信」という側面でも意義深い一冊です。現在は第2弾の『クマ外傷2』の制作も進んでいるとのことで、今後のシリーズ展開にも注目が集まっています。
📚 購入・参照情報。
新興医学出版社公式:クマ外傷 クマージェンシー・メディシン(目次・内容詳細)