甲状腺機能が正常でも、リーマス投与中は約50%の患者で一過性TSH上昇が起こりえます。
リーマス(一般名:炭酸リチウム、英名:Lithium Carbonate)は、双極性障害の躁状態の治療および再発予防に使用される気分安定薬です。その有効性は1970年代から確立されており、現在も第一選択薬のひとつとして位置づけられています。
一方で、リーマスは甲状腺に対して複数の経路から影響を与えることが明らかになっています。まず、リチウムイオンは甲状腺ろ胞細胞に蓄積しやすく、ヨードのオルガニフィケーション(有機化)を阻害します。次に、甲状腺ホルモンの放出そのものを抑制する作用があります。具体的には、TSH(甲状腺刺激ホルモン)刺激に応じたcAMPの産生を減弱させ、T3・T4の分泌が抑制される仕組みです。
これらは可逆的な変化である場合もありますが、長期投与になると不可逆的な甲状腺機能低下症へ移行するケースも報告されています。つまり、投与早期から継続的な観察が原則です。
また、リーマスは自己免疫性甲状腺炎(橋本病)の発症リスクを高める可能性も指摘されています。リチウム投与中に抗甲状腺抗体(抗TPO抗体、抗Tg抗体)が陽性化する例があり、免疫学的な機序が関与していると考えられています。抗体が陽性の患者では、そうでない患者に比べてより早期に・より重篤な甲状腺機能低下が生じるリスクが高まるため、注意が必要です。
さらに特筆すべき点として、リーマスは甲状腺腫(ゴイター)の原因にもなります。甲状腺ホルモン産生が低下すると、代償性にTSHが上昇し、それが甲状腺の過形成を促すためです。臨床的に触知できる甲状腺腫は、リチウム投与患者の約4〜40%に生じるとされており、甲状腺エコーでの確認が有用です。
日本甲状腺学会(甲状腺疾患の診療ガイドラインや患者情報の参照に有用)
甲状腺機能低下症の発症頻度については、複数の研究で報告が積み重なっています。長期投与(2年以上)では約20〜42%の患者に甲状腺機能低下症が生じるとされており、一般人口の有病率(1〜2%)と比較しても明らかに高い水準です。
頻度が高い。これは見過ごせない数字です。
特に注意すべきリスク因子としては、以下が挙げられます。
これらのリスク因子が複数重なる患者では、より高頻度のモニタリングを検討することが臨床的に合理的です。リスク層別化ができると、検査のタイミングを個別化できます。
また、見落とされがちな点として、甲状腺機能低下症の症状は双極性障害の抑うつ症状と類似するものが多いことが挙げられます。具体的には、倦怠感・意欲低下・体重増加・認知機能低下などが共通します。このため、リーマス投与中の患者で「抑うつが悪化した」と判断する前に、甲状腺機能の確認が必須です。症状だけで判断しないことが原則です。
日本精神神経学会 診療ガイドライン(双極性障害の薬物療法の推奨事項を確認できます)
では、実際にどのようなスケジュールでモニタリングを行えばよいのでしょうか?
多くのガイドラインが推奨するモニタリングのスケジュールは以下のとおりです。
| 時期 | 推奨検査項目 | 備考 |
|---|---|---|
| 投与開始前 | TSH、FT4、抗TPO抗体、抗Tg抗体 | ベースライン確認・リスク因子把握 |
| 投与開始後3〜6ヶ月 | TSH、FT4 | 早期変動のキャッチ |
| 以降は6〜12ヶ月ごと | TSH、FT4 | 長期フォロー・安定期でも継続 |
| 症状出現時・用量変更時 | TSH、FT4(随時) | 倦怠感・体重増加・浮腫などに注意 |
スクリーニングはTSH単独で可能です。TSHが正常範囲(0.5〜5.0 μIU/mL)であれば、FT4の追加測定は必須ではありませんが、TSHが上昇している場合はFT4を同時に確認し、顕性か潜在性かを鑑別します。
潜在性甲状腺機能低下症(TSH↑・FT4正常)の場合は、即座に治療介入が必要とは限りません。ただし、TSHが10 μIU/mLを超える場合、または症状を伴う場合は、甲状腺ホルモン補充を考慮します。これが条件です。
実際の臨床現場では、定期採血でのリチウム血中濃度測定と甲状腺機能検査を同日にまとめて行うことで、患者の来院負担を減らすことができます。これは使えそうです。患者のアドヒアランスにも影響するため、運用面での工夫が重要です。
なお、一部の施設では電子カルテのアラート機能を活用し、前回の甲状腺機能検査から12ヶ月以上が経過した場合に自動的に注意喚起が出る仕組みを導入しています。システムで管理するのは有効な手段のひとつです。
甲状腺機能低下症が確認された場合、治療方針の選択は患者ごとの状況に依存します。大きく分けると「リーマスを継続しながら甲状腺ホルモンを補充する」「リーマスを減量・中止して他の気分安定薬に切り替える」の2方向があります。
リーマスの精神科的有効性が明確で、かつ甲状腺機能低下症が軽〜中等度であれば、リーマスを継続しながらレボチロキシン(チラーヂンS)を開始するアプローチが一般的です。レボチロキシンの初期投与量は、成人で25〜50 μg/日から開始し、4〜8週ごとにTSHを確認しながら漸増します。高齢者や心疾患合併例では12.5〜25 μg/日からの開始が安全です。慎重に開始するのが原則です。
一方、リーマスの有効性が乏しい・副作用が多い・患者が切り替えを希望するなどの状況では、バルプロ酸(デパケン)やラモトリギン(ラミクタール)への切り替えも検討されます。ただし、いずれも双極性障害における再発予防効果の比較データを確認した上で、精神科主治医との十分な連携が必要です。
甲状腺機能低下症を放置するとどうなるのでしょうか?甲状腺機能低下を放置すると、脂質異常症(LDL-Cの上昇)・心機能低下・抑うつ症状の悪化・認知機能低下などのリスクが蓄積します。特に双極性障害患者では、これらが「気分障害の悪化」と誤認されやすく、不必要な向精神薬の増量につながる可能性があります。見逃しは患者に大きな損失です。
また、甲状腺腫(ゴイター)が顕在化している場合は、甲状腺エコーで腫大の程度・内部エコーの均一性・結節の有無を確認することが推奨されます。結節が認められた場合は、甲状腺専門医への紹介と細胞診の判断が必要になります。
日本甲状腺学会 診療ガイドライン(甲状腺機能低下症の診断基準・治療方針の詳細が掲載されています)
この点は、既存の解説記事ではほとんど触れられていない独自の切り口です。
リチウム投与中の患者において、甲状腺機能低下症は「精神症状の悪化」として誤認されやすいことはすでに述べました。ここで特に注目したいのは、潜在性甲状腺機能低下症(TSHのみ上昇、FT4正常)の段階においても、認知機能への影響が出ている可能性があるという点です。
複数の研究で、潜在性甲状腺機能低下症でも処理速度・記憶・注意機能などの神経心理学的指標に有意な低下が認められると報告されています。これは意外ですね。双極性障害患者はもともと神経認知機能の低下を示しやすいため、甲状腺機能の問題が重なると、その影響は単純加算以上になる可能性があります。
QOL(生活の質)の観点からも重要です。甲状腺機能低下症を伴う患者では、抑うつ症状スコア(例:Hamilton Depression Rating Scale)が有意に高い値を示す傾向があり、甲状腺ホルモン補充後にこれらが改善する症例も多く報告されています。つまり、甲状腺機能の正常化が精神症状の改善につながるということです。
医療従事者の立場から見ると、リーマス投与中の患者が「なんとなく調子が悪い」「以前より集中できない」と訴えた際に、甲状腺機能の確認を鑑別リストに入れる習慣を持つことが重要です。精神症状と内分泌症状の境界は曖昧です。その一手が、患者の適切な治療につながります。
さらに実践的な情報として、リチウム・甲状腺機能・認知機能の三者を系統的に評価するツールとして、Thyroid-Related Quality of Life Questionnaire(ThyPRO)や認知機能評価のMoCA(Montreal Cognitive Assessment)を定期フォローに組み込んでいる専門施設もあります。採用施設は増えつつありますが、まだ標準化されていません。このような評価軸を外来診療に取り入れることで、より精緻な患者管理が可能になります。
| 場面 | 考えられる原因(鑑別) | 確認すべき検査 |
|---|---|---|
| 意欲低下・倦怠感 | 双極性障害の抑うつ相 / 甲状腺機能低下症 | TSH、FT4 |
| 体重増加・浮腫 | 薬剤性 / 甲状腺機能低下症 | TSH、FT4、空腹時脂質 |
| 記憶力・集中力の低下 | 認知機能障害 / 潜在性甲状腺機能低下症 | TSH、MoCA、神経心理検査 |
| 首の腫れ・違和感 | リーマス誘発性甲状腺腫 | 甲状腺エコー、TSH |
この鑑別の視点を持つだけで、臨床判断の精度が変わります。リーマスを投与している患者の「変化」を、常に多角的に評価することが求められます。それが医療の質を高めます。