乳児ボツリヌス症は、1987年に厚生省(現厚生労働省)が1歳未満の乳児にはちみつを与えないよう通知を出すまで、比較的多くの事例が報告されていた重大な食中毒です。ボツリヌス菌は土壌や河川などの自然界に広く存在する細菌で、特に土から花の蜜を集めるミツバチを通じてはちみつに混入する危険性が高いとされています。
国内では通知以降、はちみつ摂取による症例は激減しましたが、現在でも医師の報告事例が継続して報告されています。米国では毎年100例以上の発症報告があり、世界的に注視されている課題です。ボツリヌス菌の芽胞(耐久性の高い殻状の状態)が赤ちゃんの未熟な腸内環境に到達すると、腸内で発芽・増殖し、神経毒性の強いボツリヌス毒素を産生することが、この疾患の発症メカニズムです。
大人の腸内には数百種類以上の常在菌が複雑な生態系を形成しており、新たに侵入した菌に対して競争排除が働きます。そのため、たとえボツリヌス菌の芽胞が口から入っても、腸内で増殖することはなく、通常は何の症状も起こりません。一方、1歳未満の乳児の腸内環境はまだ成熟していない段階です。腸内細菌の種類が少なく、菌叢の複雑性が未発達であるため、ボツリヌス菌に対する競争力が極めて低い状態にあります。
ボツリヌス菌は酸素が少ない環境を好む嫌気性菌で、腸内という酸素の少ない環境では理想的な増殖条件が揃っています。乳児の腸内でこの菌が増殖する際に、神経系に作用する毒素が大量に産生されるのです。この毒素は神経と筋肉の接続部分(シナプス)に作用し、神経伝達物質の放出を阻害することで、弛緩性麻痺を引き起こします。
はちみつ摂取から症状発症までの潜伏期間は、通常2日から数週間とされており、個体差が大きいのが特徴です。最初の症状は多くの場合、便秘で現れます。これはボツリヌス毒素が腸の蠕動運動を制御する神経に作用するためです。その後、哺乳力の低下が目立つようになり、赤ちゃんが母乳やミルクを吸う力が弱くなります。
進行すると、全身の筋力が低下する「弛緩性麻痺」が生じ、首がすわらなくなる、手足の力が抜ける、泣き声が小さく弱くなるといった症状が現れます。呼吸に関連する筋肉が侵される場合、呼吸困難に至る可能性もあります。これらの症状は通常、段階的に進行し、いったん現れると自然治癒は困難なため、医学的介入が必須となります。幸いにも、適切な治療(ボツリヌス免疫グロブリン製剤の投与など)により、ほとんどの症例は回復しますが、歴史的には死亡例も報告されています。
はちみつが最も有名なボツリヌス菌混入食品ですが、実は他にも危険性が指摘されている食品があります。黒砂糖(特に未精製の黒砂糖)、コーンシロップ、スポーテッドコーンシロップなどにもボツリヌス菌が含まれることが報告されています。さらに、自家製の野菜スープや、冷蔵されていない要冷蔵食品、封が開いたレトルト食品、家庭で瓶詰にした発酵食品なども感染源となる可能性があります。
過去の事例では、井戸水がボツリヌス菌の感染源となったケースも報告されており、食品だけに限定した対策では不十分です。保護者は食品の成分表示を常に確認し、はちみつや黒砂糖を含む製品を意識的に避ける必要があります。ベビーフードや市販の子ども用お菓子でさえ、製造過程で原材料としてはちみつを使用しているケースがあります。祖父母を含む家族全体が、この危険性を理解し、1歳未満の乳児にはちみつを含むあらゆる食品を与えないという一貫した方針を持つことが極めて重要です。
誤ってはちみつを与えてしまった場合、まず重要なのは、その量がわずかなものであったとしても、医療機関への相談を躊躇しないことです。潜伏期間が長いため、即座には症状が現れなくても、数週間の間にボツリヌス菌が腸内で増殖する可能性があります。医師に「いつ、どの程度の量のはちみつを摂取したか」を正確に伝えることで、医学的な観察の必要性が判断されます。
摂取後の監視期間は、一般的に最低2~3週間とされていますが、より長期間の注視が推奨される場合もあります。この間、保護者は赤ちゃんの排便パターン、哺乳の様子、全身の筋力、声の出し方などを日々詳細に記録することが重要です。便秘の傾向が見られたら、排便回数と便の硬さを記録し、哺乳力の低下がないか、吸啜反応に変化がないか、泣き声に張りがあるか、首や手足に力が入っているかなど、微細な変化を見逃さないことが危機管理の要となります。
少しでも異常が疑われる場合、迷わず医療機関を受診する必要があります。早期受診により、診断が確定した場合には、ボツリヌス免疫グロブリン製剤(BIG-IV)という特異的な治療法が施行され、予後は格段に良くなります。
厚生労働省の現在のガイダンスでは、はちみつは1歳を過ぎてからの摂取が推奨されています。1歳に到達する前日までは、どのような少量であってもはちみつ含有食品の摂取は避けるべきです。1歳を超えた幼児にはちみつを初めて与える場合にも、段階的なアプローチが推奨されています。
最初の摂取は、小さじ半杯程度(約2.5ml)の非常に少量から始め、24時間は赤ちゃんの反応を観察します。この初回摂取後に下痢や腹痛などの不調がなければ、その後は少しずつ量を増やしていくことができます。ただし、1歳以上であっても、はじめは慎重に進めることが保護者の安全意識を示すものとなります。はちみつを直接食べさせるのではなく、ホットケーキやヨーグルト、パンなどに少量混ぜて与えることで、過剰摂取を防ぐことができます。
これらの予防知識は、保育施設の職員にも広く浸透していますが、家庭での管理が最も重要です。家族全体が「1歳未満にはちみつを与えない」というルールを明確に共有し、買い物の際にも食品表示を確認する習慣を身につけることで、予防可能な疾患である乳児ボツリヌス症から赤ちゃんを守ることができるのです。
厚生労働省 - ハチミツを与えるのは1歳を過ぎてから(乳児ボツリヌス症の予防に関する公式ガイダンス)
東京都福祉保健局 - 1歳未満の乳児に、はちみつを与えてはいけないのはなぜか(詳細な医学的説明)