カルシウムが小麦の20数倍含まれているのに、主婦の間ではまだほぼ知られていません。
「インジェラ」という名前を初めて聞く方も、写真を見た瞬間に「なんだこれ?」と思った方も多いはずです。薄くてスポンジ状、灰色がかった円盤のような見た目から、ネット上では「食べるボロ雑巾」などとも呼ばれることがある、インパクト抜群の食べ物です。しかし実際は、エチオピアという国で紀元前から食べられてきた、歴史ある正真正銘の国民食です。これは侮れません。
インジェラはエチオピア北部の高原地帯が発祥で、19世紀末のエチオピア帝国の拡大とともに国全体に普及していきました。現在では朝・昼・夜の3食はもちろん、間食としても食卓に並ぶほど、エチオピアの人々の生活に深く根づいています。「エチオピア人はインジェラを食べないと食事をした気にならない」という言葉があるほどです。アフリカ諸国のなかでも、インジェラを主食としているのはエチオピアだけという点もユニークです。
見た目の特徴として、表面に「アイン(目)」と呼ばれる無数の小さな気泡の穴が空いているのがわかります。この穴こそが、うまく発酵できているかどうかの証明です。穴が多くて均一なほど「出来のよいインジェラ」とされ、エチオピアでは「美味しいインジェラが焼けないとお嫁にいけない」とも言われるほど、インジェラを上手に作ることは女性としての料理スキルの証とされてきました。つまり、インジェラは「見た目がすべて」な食べ物でもあるのです。
インジェラは片面のみ焼くクレープ状のパンで、直径は大きいもので40〜50cm程度(一般的なフライパンより一回り大きいサイズ)になります。焼きあがると独特の発酵食品の匂いと、ほんのりした酸味が特徴です。この酸味こそが「まずい」と言われる原因にもなっていますが、食べ慣れると「これがないと物足りない」という中毒性があります。
インジェラの主原料は「テフ(Teff)」という穀物です。テフはエチオピア語で「見失う」という意味を持ち、その名の通り一度落としたら見つけられないほどの極小粒の穀物です。種子の大きさは小麦粒のおよそ100分の1で、世界最小の穀物と呼ばれています。
この小ささにこそ、テフの最大の特徴が隠れています。粒が小さすぎるため、胚芽・ふすま・胚乳を分けて精製することができません。つまり、すべて全粒粉として加工されます。これが何を意味するかというと、穀物の栄養素がまるごと摂れるということです。これは重要なポイントです。
テフの栄養素は非常に豊富で、下記のような特徴があります。
鉄分の含有量が群を抜いている点は特に注目です。エチオピア高原は標高2,000m以上の高地でありながら、貧血に悩む人が少ないとされる理由の一つが、このテフを毎日食べる食文化にあると考えられています。日本の女性は鉄欠乏性貧血が多い(成人女性の約20〜25%が潜在的な鉄不足状態と言われます)ことを考えると、テフを使ったインジェラは日本の主婦にとっても強い味方になれる食材です。
また、テフは低GI食品(血糖値の上昇が緩やかな食品)でもあります。白いご飯やパンに比べて食後の血糖値上昇が抑えられるため、糖質が気になる方のダイエット食や腸活食としても近年世界中で注目されています。アメリカやオーストラリアでもテフの栽培が始まっているほどです。
テフ粉は国内でもオンラインショップで入手できます。グルテンフリー食材を扱うECサイトや自然食品店で「テフパウダー」として販売されており、日常的に取り入れることも難しくありません。
インジェラのスーパーフードぶりは本物です。
参考:インジェラの栄養価とスーパーフードとしての可能性について詳しく解説されています。
エチオピアの伝統料理「インジェラ」について(江戸ソバリエ協会)
参考:テフの鉄分・カルシウム・たんぱく質の具体的な数値比較が確認できます。
インジェラの核心は「発酵」にあります。基本的な作り方は、テフ粉と水を混ぜ合わせ、それを数日間発酵させてから焼くというシンプルなもの。しかし、この発酵工程がインジェラの風味を左右する最大のポイントです。
エチオピアのレストラン「クイーンシーバ」(東京・中目黒)では、水とテフだけを使い、なんと3週間かけて発酵させています。エチオピアの家庭でも、前回の発酵生地を少し残し、新しい生地に加えることで発酵を促す「継ぎ種」の技法が用いられており、10年・30年・50年と菌を引き継いでいる家庭もあるといいます。まるで日本の糠床のような文化です。
自宅で作る場合は、3週間待つ必要はありません。以下のような方法で1〜3日程度で作ることができます。
| 材料(2人分) | 分量 |
|---|---|
| テフパウダー | 100g |
| ドライイースト | 3g |
| 水 | 300cc |
作り方は大まかに以下の流れになります。
発酵完了後の生地は非常にデリケートです。インジェラはグルテンを含まないため、生地どうしをつなぐ成分がありません。繊維が重なって形を保っているだけなので、冷蔵庫に入れるとバラバラに崩れ、乾燥や湿気にも弱いという特徴があります。つまり、作ったその日のうちに食べるのが原則です。
寒い時期は発酵が進みにくい点も要注意です。冬はヨーグルトメーカーを使って37℃・12時間で発酵させるとうまくいくという方法も紹介されています。ヨーグルトメーカーをお持ちであれば、季節を問わず安定した発酵ができます。
テフ粉が手に入らない場合はそば粉でも代用ができます。そば粉100%だと風味は異なりますが、同様の発酵パンとして仕上げることが可能です。米粉と半々にする方法も試されています。
参考:インジェラの詳しいレシピと発酵のポイントについて解説されています。
栄養豊富でグルテンフリー!「テフ」でつくるエチオピアの国民食「インジェラ」(マルコメ)
インジェラはそれ単体で食べるものではなく、「ワット」と呼ばれる煮込み料理と一緒に食べるのが基本です。ワットはスパイスを使ったシチューのようなもので、肉・豆・野菜とさまざまなバリエーションがあります。インジェラの発酵による酸味と、ワットのスパイシーな風味は絶妙に合います。
食べ方は、日本人には少し新鮮に映るかもしれません。大きく広げたインジェラの上にワットを乗せ、右手でインジェラをちぎりながらワットをすくうようにして口に運びます。スプーンもフォークも使わず、手で食べるのがエチオピア流です。インジェラ自体がお皿と主食を兼ねているような感覚です。
代表的なワットの種類をまとめると、以下のようになります。
エチオピアには「グルシャ」という文化もあります。親しい相手に美味しいところを取り分け、インジェラで包んで直接口に運んであげる、愛情表現の食文化です。食べる側は「バッカ!(もういい!)」と言うまで続けられます。食事を通じて絆を深める、温かい文化ですね。
また、インジェラには白いものと黒っぽいものの2種類があります。黒いインジェラは使用する穀物の種類が異なり、鉄分の含有量がより多いとされています。栄養重視の方は黒いインジェラを選ぶとよいでしょう。
日本でエチオピア料理を体験したい場合は、東京・中目黒にある「クイーンシーバ」(1990年開業)や、葛飾区・四ツ木の「リトルエチオピア」などが知られています。本場の雰囲気の中でインジェラとワットのセットを楽しめます。初めてインジェラを食べる方は、ワットと一緒に食べることで酸味がマイルドに感じられるのでおすすめです。
参考:インジェラの食べ方やワットの種類について詳しく説明されています。
ここからは検索上位ではあまり取り上げられていない視点として、インジェラの「文化的・社会的な役割」について掘り下げます。単なる食べ物の域を超えた存在感があります。
エチオピアでは、インジェラは家族や共同体の絆そのものを象徴しています。大きな一枚のインジェラをみんなで囲み、同じ皿をシェアして食べるスタイルは「ともに食べること」の精神を体現しています。エチオピアの絵画にも、丸いインジェラを囲む家族の姿が描かれており、それほど生活に根づいた存在です。
インジェラの出来は今でも女性の料理スキルの評価基準とされています。「アイン(目)」と呼ばれる気泡の穴の数が多く、均一に並んでいるほど出来がよいとされ、「美味しいインジェラが焼けないとお嫁に行けない」という言い伝えが今も語り継がれています。日本でいえば「出汁がうまく取れてこそ一人前」のような感覚に近いかもしれません。
エチオピア正教とインジェラの関係も興味深い点です。エチオピアではキリスト教徒が多く、正教会には断食(ファスティング)の習慣があります。毎週水曜日と金曜日のほか、イースターやクリスマス前には2週間〜最大2か月もの断食期間があり、この間は肉・乳製品などの動物性食品が禁じられます。断食期間中も食卓に欠かせないインジェラと、ヴィーガン対応のワット(バイヤネットなど)が活躍します。宗教と食が密接に絡み合っている点が、エチオピア料理の奥深さです。
インジェラは保存が難しいという特性ゆえに、エチオピアでは毎日新鮮なものを焼く習慣があります。「今日のインジェラ」を毎朝準備することが家庭の日課であり、発酵の管理や焼き加減のコントロールは経験と観察の賜物です。これはまさに、日本の糠床や味噌と同じ「生きた発酵食を育てる」感覚です。発酵食文化という観点から見ると、インジェラと日本の伝統食には共通するDNAがあるとも言えます。
インジェラを通じてエチオピアの食文化を理解すると、見た目の第一印象とはまったく異なる豊かな世界が広がっています。これは大きな発見です。自宅でインジェラを作ってみることは、単なる料理体験を超えて、エチオピアという国の文化と歴史に触れる入口にもなります。ぜひ一度、テフパウダーを手に取って、発酵からチャレンジしてみてください。
参考:インジェラとエチオピア文化・断食の関係について詳述されています。
変わる環境と暮らし:エチオピアのインジェラと食を巡る文化(地球・人間環境フォーラム)